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日本テレビは「逮捕とは何か」を分かってる?


 NHKへの不信感はもう結構前から感じていて、この数年何度もそれについての投稿を書いてきたし、昨夏(2019年夏)日韓政府の摩擦が深刻化したタイミングで、民放各社が一斉にフェアとは思えない姿勢の報道を行った為、それ以降はテレビ報道全般への不信感に関する投稿を頻繁に書いてきた。


 今月だけでも、
既に19日中・8日分の投稿でテレビ各局の報道についての不信感に触れている(このブログは1日1投稿)。これらを読んで貰えれば分かるだろうし、昨日の投稿でも触れたように、自分は基本的に日本テレビとフジテレビ、そしてNHKの政治報道に特に強い不信感を抱いている。だから、ある事案について取り上げた局を調べる場合に、全ての局の報道に触れる以外では、TBSとテレビ朝日の報道に言及することが多い。積極的にテレビ報道に目を通す場合は、TBSかテレビ朝日を選ぶことが多く、日本テレビやフジテレビを選んで見ることは滅多にない。
 テレビ朝日も、年明け早々に報じた「ANNによる安倍首相に言い訳をさせるインタビュー 」や、在京テレビ局の中では一番マシだと思えるTBSですら少ないのに、最近はTBSに比べて政府に都合の悪い報道をしない傾向が見られる為、不信感の度合いは増している。


 フジテレビに関しては、報道以外でもチャンネルを合わせる機会が殆どない為、テレビをつけた時にフジテレビにチャンネルが合っていることも殆どないので、消極的にテレビを付ける場合でも見ることはほぼない。一方日本テレビに関しては、娯楽番組を見ることがしばしばある為、何となくテレビをつけて日本テレビが目に入る、ということもたまにある。
 昨日は夕飯を食べる際にテレビをつけたら、チャンネルが合っていたのが日本テレビで、ニュースをやっていたので「たまには日テレのニュースも見てみるか」とそのまま眺めていた。見た感想は「やっぱり日本テレビのニュースを積極的に見る必要はない」だった。


 そう感じた理由は2つある。まず1つ目は「京アニ事件から半年 容疑者の容体は安定も|日テレNEWS24」である。


このムービーの右上には「青葉容疑者 逮捕に至らず 京アニ放火殺人 発生から半年」というコピーが表示されている。また、地上波のニュース番組ではこのムービーに含まれていないスタジオパートがあり、ムービーを放送する前にアナウンサーが「容疑者の容態は回復しつつありますが、未だに逮捕に至っていません」のようなことを言っていた。まるで「逮捕されないのがおかしい」と言いたげな様子だった。
 捜査を行う上で、罪を犯した疑いがある者、つまり容疑者(被疑者)が、更に罪を重ねたり、逃亡したり証拠隠滅を図る恐れがある場合に行われるのが逮捕であり、逆に言えば、容疑者に逃亡/証拠隠滅の恐れがなければ逮捕・拘束する必要はなく、逮捕せずに事情を聞いて捜査するのが妥当だ。この日本テレビのような報じ方をするから、逮捕=有罪、逮捕=懲罰みたいな誤った認識が、未だに日本の社会からなくならないのではないだろうか。警察はあくまでも捜査機関であり、有罪か無罪かや、有罪の場合に科す懲罰の内容を決めるのはあくまでも裁判所の役割である。つまり逮捕=有罪でも逮捕=懲罰でもない。

 そのような誤解を生まない為には、「容疑者の容態は回復しているのに逮捕に至らず」ではなく、「容疑者の容態は回復しているのに捜査が進んでいない」と報じるべきだ。このような報じ方は日本テレビに限らず、例えば毎日新聞も「容疑者逮捕まだ困難 入院中、起き上がれず 京アニ放火事件半年 - 毎日新聞」という見出しで報じている。


他の報道機関も同じだから日本テレビも同様に報じても問題ない、という話ではないので、これが1つ目の「やっぱり日本テレビのニュースを積極的に見る必要はない」と感じた理由だ。


 2つ目の理由は「ゴーン被告「日本人が休暇取る年末狙った」|日テレNEWS24」である。

ゴーン被告は、逃走時期としてなぜ年末を選んだかを問われると、「人々がのんびりと休暇やスキーに出かける時期だからだ。逮捕されたときは不意打ちを食らわされたが、今回は私が不意をついた」などと自画自賛した。
ゴーン被告は「何万人もの人が日本の司法制度に苦しめられているということを知ってもらうために、私は役に立ち、人助けになると思う」などと自身の不法出国を正当化した。
という表現がこの記事には用いられている。「自画自賛した」「正当化した」という表現が、ゴーン氏を犯罪者と決めつけているから用いられたもの、と断定することは出来ないが、そのようなニュアンスを強く感じる
 「自身の不法出国を正当化」については、ゴーン氏も不法な出国だったこと自体は認めているようなので、その表現が妥当ではないとは言えないかもしれないが、その前提には「日本では適切な捜査や司法判断が受けられない」というゴーン氏の主張もあり、また、「仏大統領「安倍首相に不満、何度も表明」ゴーン被告拘束:朝日新聞デジタル」など、


「日本では適切な捜査や司法判断が受けられない」という話の妥当性を指摘する国外の論調もあるのだから、間違っていることをあたかも正しいことかのように言う、というニュアンスの強い「正当化した」という表現よりも、よりニュートラルな「正当性を主張した」などの表現を使うべきではないのか。
 自画自賛(ジガジサン)とは - コトバンク によれば、厳密には必ずしも皮肉的な意味が込められるわけではないものの、「自画自賛した」は更にそのような傾向の強い表現で、自分のことを(大したことないのに)過剰に高く評価した、というニュアンスが強く感じられる。

 日本テレビが、桜を見る会の問題についての安倍氏や菅官房長官、内閣府職員による、すぐに嘘がバレるような稚拙な主張に関しても、このような表現を用いて報道していたなら、ゴーン氏に関するこの報道にも強い違和感はなかったかもしれない。しかし、政権への疑義や彼らの稚拙な答弁については決してそのような表現は用いないし、用いないどころか、年明け以降は「桜を見る会の問題」に関して殆ど触れない。
 例えば、日本テレビは今日「日米安保改定60年 安倍首相「不滅の柱」|日テレNEWS24」と報じた。


このムービーでは、安倍氏が日米安全保障条約の改定から60年の記念行事で、
日米安保条約は、いつの時代にもまして不滅の柱。アジアとインド太平洋、世界の平和を守り繁栄を保証する不動の柱です
と述べたとしている。1960年に日米安保条約の改定を行ったのは安倍氏の祖父・岸 信介氏だ(岸信介#安保改定と反対運動 - Wikipedia)。それを勘案すれば、日米安保改定60年記念行事でそれを安倍氏が称える様子を「自画自賛」と表現してもいいだろうし、日米安保条約には片務的で日本に不利な部分を含む日米地位協定が含まれている(日米地位協定#不平等性の主張 -Wikipedia)という指摘もあるので、「安倍氏は日米安保条約を正当化した」と報じてもよかっただろう。しかし日本テレビはそんな風には決して表現しない。
 つまり日本テレビの報道は、報じる対象によって表現を使い分けていると強く感じるし、日本政府に忖度した報道姿勢であり、政府と主張の異なる者を低く見る傾向にあるようにも感じる。


 この2つの件から言えるのは、日本テレビは「逮捕とは何なのかよく分かっていない」と強く感じられる、ということだ。京アニの件では、容疑者が逮捕されないのはおかしい、と思っているようにしか見えないし、ゴーン氏の件では、逮捕されていたゴーン氏の言う事に信憑性などない、と思ってるのではないか?と強く感じられる。そんな局の報道を積極的に見たいか?自分は全くそうは思わない。
 また、このような「逮捕とは何か」をよく分かっていない報道を大手メディアがすることも、日本では「適切な捜査や司法判断が受けられない」と諸外国から認識されてしまう理由の1つだろう。

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