この投稿では動物愛護に関連したことを書くのだが、動物愛護に関連した投稿はこれまでにも何度も書いてきた。同じ人間が書くのだから、基本的にこれまでに書いてきたことの繰り返しになるだろうし、新しいことはあまり書けないだろう。だが、やはり違和を感じたら文字にせずにはいられない。変なものは変だ。
- 動物愛護(2017年1/19)
- 動物愛護(2017年3/2)
- イルカ問題と道徳教科書問題の共通点(2017年4/4)
- 獲物の解体は残酷か(2017年11/12)
- 動物愛護と食文化の関係(2018年1/12)
- 優生保護法と動物愛護感(2018年2/25)
- 感情的で身勝手な動物愛護感(2018年3/4)
- 犬猫びいきの動物愛護感(2018年6/18)
- 他の文化への理解・寛容さの必要性(2019年1/9)
- 室内から猫を出さないのは「猫のため」ではなく「人間のため」(2019年6/24)
- 世界は人間だけのものじゃない!猫やネズミもいて当然(2019年8/8)
- アフリカ豚コレラ感染拡大への対応の妥当性(2019年9/23)
- 保護と称して機会を奪うことの不合理(2020年10/19)
まず最初に断っておく。動物愛護を否定する気は一切ない。しかし何事においてもバランス感覚や他との整合性は必要で、動物愛護は何よりも優先されるべきもの、のような話には賛同もできないし容認もしたくない。
絶対的に何よりも優先されることなんて何もないだろう。たとえば、人を殺してはいけない、は大抵の場合に当てはまる道理ではあるが、自分が殺されそうになっている場合にやむを得ず反撃したら相手が死んでしまった場合には、人を殺してはいけない、という価値観でのみその人を罰するのは妥当か。どんなに手を施したとしてもよくなる見込みのない患者を延命する為の治療を止めて、医者やその家族らが間接的にその人を死に至らしめた場合に、人を殺してはいけない、に沿って罰するのは妥当か。
人を殺してはいけない、にすら間違いなく例外は存在する。ならば、愛護というもっと曖昧なものには、例外というか、他との兼ね合いで他が優先されるべき場合も確実にあるはずだ。
この投稿を書こうと思った直接的なきっかけはこの記事だった。
「エビ・カニ・タコは感覚を有する生物」とイギリス政府が認定、生きたままゆでる行為を禁じる法案成立に向け前進 - GIGAZINE
記事によれば、イギリス政府は、「エビ・カニ・ヤドカリなどの十脚目の甲殻類、イカやタコなどの頭足類も意識を持っている」という報告を基に、動物福祉(感覚)法案の適用範囲を拡大することを発表し、この修正により動物福祉(感覚)法案が施行されれば、イギリスにおいてエビやカニ、タコなどを生きたままゆでたり包装して販売したりすることは違法行為となるそうだ。
スイスでは2018年に、既に同様の法律が成立していて、「ロブスターは失神させてから調理するように」という保護規定が定められているらしい。
どういうことかと言うと、エビカニタコなどには意識があり痛みを感じるのだから、生のまま茹でるなどの調理法や生きたまま包装して販売するは残酷なので、失神させてから茹でる/苦しみを感じないように処理してから販売するのが妥当であり、それを法制化した、ということだ。
個人的には、一体何を言っているんだろう、としか思えない。たとえば、魚を生きたままさばくことがあるが、なぜそうするのかと言えば、生きたまま魚を運んだ方が鮮度が落ちにくく、食べる直前、調理する直前まで生きたままの方が新鮮さを保てるからだ。決して拷問にかけたいから魚を生きたままさばくわけではないし、茹でるなどの方法で調理する場合も同じだ。
前述のスイスの方の記事には、人道的な観点から見れば、甲殻類を調理する際には実際に死を迎える前に失神させたり、一瞬で殺す必要があるが、魚と比べてカニやエビは「一瞬で殺す」のが難しい、とある。それで推奨される処置として電気ショックが挙げられていて、意識のある状態で刃物を入れることは非人道的とある。一方で、食肉等の戒律が厳しいイスラムのハラルでは、家畜をさばく際には鋭利なナイフで喉を横に切断しなければならない。 電気ショック、絞殺や撲殺は禁忌である。
言い換えれば、イギリスやスイスの件からは、キリスト教系民族の排他性、自分達の価値観が絶対的に優良であり、他民族・他宗教の価値観はそれよりも劣っている、という感覚が今も根強く残っていることを感じさせる。
イギリスの記事の数日前に、ペットショップなどにおける犬猫の展示販売に加え、サーカスのクマや水族館のイルカショーなどの動物を使った見せ物を禁止する法律がフランスで可決された、という記事もあった。
ペットショップの犬猫展示販売や水族館のイルカショーを禁ずる法律が可決される - GIGAZINE
「ペットを衝動買いして後に捨てる」という事態を防ぐため、ペットショップなどにおける犬猫の展示販売を禁止する、については理解できる。しかし、バラエティ番組などで野生動物を見せる行為と見せ物目的で野生動物を繁殖する行為、水族館におけるイルカショー・シャチショー、サーカスにおける野生動物を使ったアニマルショーを全般的に禁止する規定については賛同しかねる。
動物を見世物にする行為を禁じるなら、水族館や動物園は全般的にアウトではないのか。 たとえば、閉館してしまったが、油壺マリンパークでは魚によるショーが行われていた。イルカやシャチなど哺乳類はダメで魚類や甲殻類はOKなのか。 植物園も生物を見世物にする施設だし、品種改良などによって、人間が手をかけないと生存できないような種を作り出すことは人道に反しないのか。つまり、その法の線引きに妥当性はあるのか、という疑問が拭えない。
どうも、特に欧米人は、野生動物と家畜や愛玩動物の間に線を引きがちだが、どの動物も本来は野生動物であり、野生動物/家畜/愛玩動物というのは人間による勝手な線引きだ。個人的には、そもそも犬や猫を飼うことだって人間の都合で動物を拘束する行為だと思うし、イルカショーやサーカスなどがアウトならば、エサを使って犬に芸を仕込む行為も禁じるべきだ。
勿論、ショーをやる水族館やサーカスに問題がある場合もあるだろうが、法で一律に禁じるべきことかと言えば、それは臭い物に蓋をするだけ、極端で短絡的な話でしかないと考える。
イギリスやスイス、フランスなどでそんな過剰な動物愛護感、個人的には歪んだ動物愛護感と思えるような法が検討され制定される一方で、オーストラリアでは野生の馬1万頭以上を殺処分するか別のエリアに移動させる計画が進んでいるそうだ。
貴重な生態系を破壊する野生の馬1万頭以上の処分が決定、「それでも不十分」と科学者は批判 - GIGAZINE
野生の馬1万頭以上を殺処分が検討されている理由は、外来種である馬がオーストラリアの固有種や絶滅危惧種を脅かす存在になっているから、だそうだ。オーストラリアの固有種を存続させるアクションが必要だ、ということには賛同できるが、その方法が外来種である馬の大規模殺処分、いや大量虐殺というのは全く賛同できない。賛同できないどころか非難する。
鳥インフルエンザや豚コレラなどの感染症が発生した際に、感染個体が発見された集団を、検査もせずに全頭殺処分というのは適切か、と指摘した。人間に置き換えて考えたらその残虐性がよく分かる。昔はコレラや結核が見つかると、その家族ごと、時には村ごと差別の対象になって、最悪の場合は焼き討ちにあうなんてこともあったそうだが、検査もせずに全頭殺処分するのはまさにそういうことだ。そんなことをやる一方で、エビカニタコの人道的な処置を義務付けるなんて、人間は本当に感覚がどうかしている。
他の種の存続を脅かす存在だから野生の馬を万単位で虐殺する。なんて正気の沙汰じゃない。固有種を脅かす存在だとしても、一頭一頭には命があるし、そもそもその馬を持ち込んだのは、現在オーストラリアで国の実権を握っている、ヨーロッパからの移民、つまり人間だ。
オーストラリアの件を人間に置き換えたら、それはアメリカの白人至上主義にとてもよく似ている。現在アメリカでは移民が増え、非白人が増加していて、将来的に多数派でなくなる恐怖が一部の白人にはあるそうで、それが白人至上主義、非白人に対する差別の根源の1つになっているらしい。非白人差別の大部分は黒人への差別だが、アメリカに黒人を奴隷として連れてきたのは白人である。奴隷として自分たちが黒人を連れてきたのに、都合が悪くなると排斥しようとする構造は、オーストラリアの野生馬の件と似ている。
また、ネイティブアメリカンにとって、たった数百年前に移民してきて、現在米国の実権を握っている白人は、その存続を脅かす存在だ。もしネイティブアメリカンが、固有種である自分達先住民を脅かす白人は数千万単位で殺処分する必要がある、と言い出したらどうだろうか。同じことをオーストラリアの先住民であるアボリジニーなどが言い出したら、オーストラリアの白人はどうだろうか。
そんなことから考えると、動物愛護、特に欧米における動物愛護感というのは実に歪んでいる、としか思えない。
トップ画像には、Noah's Ark by H. C. Tunison - Artvee を使用した。