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声を上げられる時に声を上げておかないと…

 岡崎 京子作のマンガ「ヘルタースケルター」の主人公は、人気モデルになる為に、そしてその人気を維持する為に、全身を作り変えるほど危険な美容整形手術を繰り返していた。しかしその副作用とモデル業のストレスによって次第に心身を病んでいくことになる。
 トップ画像は蜷川 実花監督による映画版の、整形のシーンと顔が崩れるシーンである(ヘルタースケルター (漫画) - Wikipedia)。


 面子を保つ、体裁を繕うことを英語で save face と表現する。日本語でも「顔を立てる」「俺の顔に免じて」など、面子や体裁のことを顔と表現する。面子や面目にも同じく顔のようなニュアンスがある。自分の人気を維持する為に副作用すら厭わずに整形を繰り返すヘルタースケルターの主人公はまさに save face という感じだ。

 他の国や地域と比べて云々ということではないが、日本人には、一つのことに邁進することを過剰に称賛する傾向が強い。実際には学生が勉強よりもテレビゲームやマンガなどにのめり込んでも褒められないので、厳密にはそうとも言い難いのかもしれない。しかし、他のことには目もくれずに勉強する子は、テレビゲームやマンガにのめり込む子よりも確実に問題視されない。では勉強が絶対視されているのかと言えばそうとも言えず、野球やサッカー等の部活動などを勉強よりも優先させる場合にも問題視されない場合もある。問題視されないどころか称賛される場合すらある。
 何が言いたいのかと言えば、日本には、他にわき目も触れずに社会的に望ましいとされることに邁進することが過剰に称賛される傾向がある、それが上手くいかなかった場合のプランBを用意せずに妄信/盲進するケースがしばしば起きる、ということだ。その最も典型的な例が70年前の戦争と、その戦争によって引き起こされた悲劇である。

 昨日の投稿で、日本学術会議が推薦した会員の任命を、形式的な任命であるはずなのに、一部菅政権が拒否した件を取り上げたが、それに関する批判と指摘について政府関係者が

要望に応じて見直せば、政府判断が間違っていたと認めることになってしまう

という見解を示している、と共同通信が報じている(政府「見送り決定覆さず」 学術会議の要望書に | 共同通信)。 つまりそれは「面子が潰れるから間違いを認めない」ということである。事実や道理よりも面子の方を重視する、という宣言に他ならない。それではどこが、過ちを認められずに長きにわたり戦争を続け、国の主要都市の多くを焼け野原にし、更には原爆を2発も落とされることになった、旧日本政府や軍、そして昭和天皇と一体何が違うのだろうか。過去に学ばなければ、再び同じ過ちが繰り返されることになりかねない。
 共同通信の記事には、

別の官邸筋は「世論の批判と野党の追及を見極める必要がある」と語り、今後の展開次第では、追加任命することも排除しない考えをにじませた

ともあるが、そんな当然の話を誰かが示していたとしても、たった70年前の戦争の悲劇に学ばない者を登用する時点で、その政権は支持するに値しない。

 菅政権が日本学術会議会員の任命を拒否した内の一人に歴史学者の加藤 陽子さんがいる。

「任命を拒否された」と東大の加藤陽子教授|全国のニュース|京都新聞

東大の加藤陽子教授は1日、共同通信の取材に「いまだコメントできる段階ではないが、任命を拒否された1人であることは事実だ」と電子メールで回答

 彼女の著書の一つに「とめられなかった戦争」がある。「なぜ戦争の拡大をとめることができなかったのか」「なぜ一年早く戦争をやめることができなかったのか」がテーマであり、これを読めば、1937年に始めた日中戦争で、ハルノートと真珠湾攻撃による日米開戦、つまり1941年までに、日本は既に数十万の兵士を失い、又は負傷させており、更に国の年間予算の数倍をつぎ込んでおり、政府と軍指導部の威信失墜と主要幹部の責任問題を恐れるあまり過ちを認めることが出来ずに主戦論へ傾倒していたこと、更にはミッドウェー海戦での敗退、ガナルカナル島での敗退、サイパン陥落に至っても尚、当時の政府と軍中枢が権力欲や面子を優先して過ちを認めずに戦争を続け国民に犠牲を強いたことがよく分かる。

 菅政権がなぜ加藤さんの任命を拒否したのかを考えれば、彼らが目指しているのは、戦前の旧日本政府への回帰以外のなにものでもない、ことが分かる。法治/民主主義から独裁への変化はある日突然起こるのではなく、徐々に外堀が埋められて、気づいた時には手遅れになる。もしかしたら、日本の有権者の多くは本当に戦前回帰や独裁を望んでいるのかもしれないが、自分はそんなものを全く望んでいない。望んでいないならば声を上げなくてはならない。権利を行使しないと奪われかねない。声を上げられる時に声を上げておくことが重要だ。
 ドイツの牧師で、自身も強制収容所へ送られたマルティン ニーメラーはこう言っている。

ナチが共産主義者を襲つたとき、自分はやや不安になつた。けれども結局自分は共産主義者でなかつたので何もしなかつた。
それからナチは社会主義者を攻撃した。自分の不安はやや増大した。けれども自分は依然として社会主義者ではなかつた。そこでやはり何もしなかつた。
それから学校が、新聞が、ユダヤ人が、というふうに次々と攻撃の手が加わり、そのたびに自分の不安は増したが、なおも何事も行わなかつた。
さてそれからナチは教会を攻撃した。そうして自分はまさに教会の人間であつた。そこで自分は何事かをした。しかしそのときにはすでに手遅れであつた。
彼らが最初共産主義者を攻撃したとき - Wikipedia


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