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”隠れ”停電ではなく”見落とした”停電、常態化する矮小化


 9/11の投稿でも書いたように、9/9に関東に上陸した台風15号は各地にその爪痕を残した。特に直撃を受けた千葉・房総半島での被害が大きく、50万戸を超える規模の停電も発生した。当初は数日で停電が解消するという見通しが示されていたが、復旧作業は難航し、台風上陸から2週間以上が経過した9/24、東京電力の関連会社で復旧作業を行っていた東電パワーグリッドが停電ゼロ・つまり停電の解消を宣言した。しかしその後、東電本体が、倒木や道路の陥没などで復旧困難な地点が県内にまだ26カ所(190戸)あると発表し、実際は停電がゼロにはなっていないことが明らかになる、ということがあった(千葉の停電「ゼロ」 その後「復旧困難26カ所」なぜ? [台風15号支援通信]:朝日新聞デジタル)。


 この件を目の当たりにして、自治体が「待機児童ゼロ」を公言したのに実際はゼロになっていなかったケースが少なくなかったことを思い出した。
自分は「待機児童ゼロが実はゼロではなかった」件を、対策の成果を強調したい役所や政治家の思惑によって生じた事案だと考えている。ざっくりと言えば、待機児童の定義を狭めて、実質的には待機児童である一部の者を待機児童の定義から外すことで、「待機児童ゼロ達成」という見栄えのよい看板を掲げたということだ。


 千葉の停電については、停電の定義を弄ったわけではないので、待機児童ゼロの件と全く同様の事案とは言い難いが、しかし、停電が解消していない地域があるのに「停電ゼロ」を公表したという点を見ると、かなり近い事案とも言える。この件の裏にも待機児童ゼロの件と同様の思惑があったのではないか?と推測する。
 前述した朝日新聞の記事には、
 東電パワーグリッドによると、HPの停電情報軒数は、高圧線の復旧状況などに基づいて更新されている。県内の高圧線の復旧工事が完了したとして「ゼロ」となったが、土砂崩れや道路の陥没などで一部復旧が困難な地点がシステム上表示されない形になっていたという。
とあるし、もしかしたら被災者などからの指摘を受けての対応だったのかもしれないが、記事のニュアンスでは東電本体が自ら誤りを訂正したように書かれているので、単にシステム上の不備によって齟齬が生じただけかもしれない。

 しかし、単純にそうとは思えない理由が他にある。読売新聞は同じことについて「復旧したはずなのに「隠れ停電」…千葉で相次ぐ : 国内 : ニュース : 読売新聞オンライン」という見出しで報じており、


記事の中でも、
 だが、低圧線や引き込み線には監視システムがないため、損傷や不具合で停電が続いていても、東電は確認することができない。「隠れ停電」とも呼ばれ、東電にも利用者からの問い合わせが相次いでいるという。
 としている。 また、TBSも同様にこの「隠れ停電」という表現を用いた報じている(千葉 停電“ゼロ”のはずが、“隠れ停電”が600軒 TBS NEWS)。


ざっと調べただけでもこの「隠れ停電」という表現を使った報道は、
などが見当たり、多くのメディアが「隠れ停電」という表現を用いていることが分かる。いくつかの記事には、読売新聞の
「隠れ停電」とも呼ばれ、
と同種の表現が見られる。そこから判断すると、記事を書いた記者ではない誰かが、把握できない停電のことをそう呼称していることが推測でき、それは東電側がそう呼んでいるとも考えられる。但し、どの記事にもその主語はなく、東電の公式見解や東電の関係者がそう呼んでいるとは断定できない。メディア側から生まれた表現である可能性も否めない。

 「隠れ停電」という表現は果たして妥当だろうか。状況に即した表現になっているだろうか。システム上の不備なのか、被害が大きくて人手が足りずに把握しきれない個所が出てしまっているのかは定かでないが、停電は決して隠くれていたわけではない。正確に言えば「見落とし停電」だ。
 「隠れ停電」という表現を使いだしたのが東電なのかメディアなのかは分からないが、実際は見落としであるのに「隠れ」という表現が用いられている裏には、消極的にかもしれないが、「これまでの対応は充分だった。しかし想定外に解消していない地域が残っていた」のような、責任を逃れたいという認識も見え隠れする。少なくとも自分にはそう感じられる。だからこの「停電ゼロ発表されるも実は解消していない地域があった」件にも、「待機児童ゼロが実はゼロじゃなかった」件と同様に、誰かの「責任から極力逃れたい」という思惑が反映されているように感じてしまう。


 「待機児童ゼロが実はゼロじゃなかった」ことが明るみになった際にも、「隠れ待機児童」という表現が用いられていた。

しかし決して児童や保護者が隠れていたわけではなく、役所や政治家が見落としていた、場合によっては、対応の成果を誇る看板を掲げる為に意図的に無視した恐れもある。つまり「隠した」という方が確実に実態に近い。つまり「隠れ」待機児童ではなく「隠された」待機児童だ。


 BuzzFeed Japanは9/25に「なぜ「気候変動問題をセクシーに」は「空っぽ」なのか」という見出しの記事を掲載している。このブログの9/24の投稿と同様に、気候変動問題問題に関する小泉環境大臣の空虚なコメントと、グレタ・トゥーンベリさんの演説を対比して書かれた記事だ。指摘していることも似ている。
 同記事ではトゥーンベリさんが用いた「empty words」という表現に注目している。



enpty wordsとは、政治家らがしばしば用いる、具体性を欠いた、しかし耳障りだけはよい空っぽな言葉、空虚な表現、中身の殆どないイメージ重視のコメントなどのことを指す表現だ。トゥーンベリさん独自の表現ではなく、昨今その用法でしばしば用いられている表現らしい。
 9/24の投稿で指摘したように、小泉大臣のコメントに限らず、中身がなくイメージだけを先行させる手法はまさに、自民党が参院選を前に始めたキャンペーン・#自民党2019 (5/3の投稿 / 6/22の投稿)などにも当てはまる。また、このブログでは
などで、現政権関係者のその場しのぎの言葉、イメージだけで乗り切ろうとする姿勢、そしてあからさまな嘘や全く重みのない表現について指摘してきた。

 政府というか首相が率先してempty wordを連発しているのだから、彼の任命した大臣らが似たような傾向になるのはある種当然だろうし、そんな政権がもう何年も続いているのだから、「隠れ停電」「隠れ待機児童」のような、少なからず責任を矮小化したいという意図があるであろう表現が、しばしば用いられるような社会になってしまうのも当然かもしれない。
 各社の世論調査では相変わらず政権支持率は50%を超えているし、寧ろ上昇している場合もある。また、よく分からないコメントしかしない小泉氏のことを、次期首相に相応しいと考えている人も少なくないという調査結果もでてくる。

 政治家だけでなく、日本の有権者自体が「空っぽ」になっているのではないか?と強く危惧する

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